東北関東大震災を体験してのろう者の思い(避難所からのレポート)

兵庫県立聴覚障害者情報センター こころの相談員(ろう者)が
東北関東大震災が起きたとき、所用で仙台に居り、被災しました。
その体験記を、下記に綴ります。

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<訂正>下記の中にブギーボードについてのことがありましたが、実際には薄暗
いところならなんとかみえます。真っ暗では使えません。
使いたい場合は、前もってご確認してから使用して下さい。ご注意くださ
い。(3月18日午前10時にて)

3月11日(金)に東北関東大震災が起き、
仙台にいたことから、震災に巻き込まれ、さまざまなことがありました。
私がろう者ということもあり、
避難所にいながらできるだけ詳細に体験をノートパソコンや手帳に記録しておきました。

ろう、難聴者、聴覚障害者のさまざまな問題、情報リテラシーなど、
多くの方々に理解してもらえば幸いです。

3/11(金)
 所用があって、仙台に行く。午前11時前にM大学について、同じろう者研究者であるMさんと会う。データ分析共同作業をする。M大学の食堂でお昼を食べて、ふたたびデータ分析共同作業をする。
午後2時半過ぎに、揺れを感じる。はじめはゆっくりのような、突然大きく揺れる。同じ部屋に一緒にいたMさんともう一人と廊下に出る。もう一人の人が駆けてくる。4人で壁に手をあてて立つ。揺れが長く大きい。立っていられないが、なんとか立てた。おさまったあと非常階段をおりて、外へ。何度も余震が起きる。グランドに避難。Mさんと私は、私の帰り方法について話し合う。
そのあと、Mさんの車で仙台市内に向かう。電気/ガス/水道すべてとまっている。ライフラインがストップ!!iphoneはなんとかツイッターができる。SMS、MMSは通じない。宮崎にいる夫にSMSを送るが届いたかどうか不明。ツイッターで「M大学でMさんと一緒にいるが、地震にあってショック。とりあえず怪我なし。みんな大丈夫」(3/11 15:30)と報告する。夫にツイッターをやらせることを決心。
渋滞にあう。一般道路は信号がつかない。なので交差点では注意して走る必要。Mさんは注意して走っていた。車のカーナビでTVをみる。
交通情報がテレビの横にでている。新幹線もストップか。仙台駅は立ち入り禁止?「ホテルを探して泊まって様子をみる必要だね」とMさんと話し合う。
(後になって考えてみると、そのときカーナビで出ていた映像は仙台駅付近の状況であった。もしかしたら、音声では仙台市外のことを言っていたのかもしれない。仙台駅付近の映像だけみていたのでひどい被害状況とは思わなかった。)
停電になったときTVはカーナビか、携帯ワンセグが必要になる。
そのワンセグも電波が届くかどうかによって使えなくなるが。。。。
大事な道路では信号が優先的についていた。
渋滞がひどいので、そこでMさんの車からおりる。ホテルがあるところまで歩いていけるので。
(後で考えてみると、そこでMさんと別れるべきではなかったと思う。映像だけをみて判断した。そこで情報キャッチの差が出たと思われる)
3カ所のホテルを回る。ところが、すべて一時閉業しますと言われた。
なので、とりあえず、仙台駅に向かう。
途中、アンケードを歩いていると、ビルの装飾がおちたり、ビルの壁の一部がはがれ落ちたりしていて、歩けない通路があった。
コンビニは閉まっているところもあれば、開いているところもあった。
閉まっているコンビニの中をちらっと覗いたら、品物が床にたおれ散らばっている、ひどい状況。ドアの前にゴミ箱(コンビニ用の)が移動され、入れないようになっている(強盗防止???)
別のコンビ二では、ドアの前に行列ができている。疑問に思ってドアのところをよく見てみたら、お店の人(男性)が一人ドアの前になっていて行列の整理をしていて、張り紙があった。「店内を片付けているのでお待ちください」と。

駅にいくと、駅の中に入れない状況。スーツケースをかかえているサラリーマンたちが駅員さんになにか言っている。新幹線の切符をもっていたので、きっと出張でどこかにいくのか、東京に戻るひとたちなのか?駅員さんが何かいって指差していて、指差した方角に、サラリーマンさんたちがスーツケースをかかえて歩き出す。駅員さんがいったことにおとなしくしたがっているよう。
「耳が聞こえないんですけど、何ですか?」とメモを駅員さんに見せたが駅員さんは何か言って指差している。みんな、指差す方向に歩いているから、とりあえず、私もついていってみよう。そしたら、駅前Mホテル仙台だった。あ、ここなら泊まってもいいのかな?と思って、ロビーに入る。暗い。そしたら、ロビーにたくさんの人たちがサゴ寝している。。。。あ、もしかしたら部屋に入った人たちがロビーに集まってきたのかな?ってことは、客室には泊まれないってことだよね?うーん。聞いてみようかな?
その前にトイレ!トイレに行きたくて我慢していた!
トイレに並ぶとあまりにも暗い。懐中電灯をスタッフがもって照らしてくれる。
大変だ。
トイレに入って、水が使えないのでつかったペーパーをトイレに流さずに、別の袋に入れた。でも便器の中にはペーパーがいっぱい。手も洗えないので、消毒用アルコールをかける。
フロントに行ってメモを取り出して
「耳が聞こえません。駅員さんがここを指差していたんですけど、朝までいてもいいんですか?」と書く。「はい、大丈夫でございます!」と書いてくれる。そのことばに震災でも接客プロの根性を感じた!!
で、毛布はどこで貰えばいいのだろうか?わかんない。
とりあえず、階段のところに座る。

18時になる。暗いのであるくときには、携帯の画面の光をたよりに歩く。
携帯の電波が悪く、圏外になってしまう。
携帯SMS,MMSが通じない。やっと携帯Eメールが通じるようなので、夫のパソコンに試しに送ってみる。ツイッター登録してということと交通事情を調べて、と携帯Eメール送る。届いたかどうか分からない。その直後に圏外になってしまった。

ホテルの外に行ってみたが、圏外に。あれ??????どうしたんだろう???
地下でもないし。。。
何度もホテルの外に出る。でも圏外のまま。
どうしたんだろう?ツイッターできない。メールもできない。
状況どうやってつかめばいい???

懐中電灯があっちこっちにおかれてあるが
やはり暗い。
ろう者にとってはますます不安になってしまう。
じーっとしたほうがいい?でも暗くてこわいよー。
どうしたらいい?こんなときに?
ああ、ブギーボード(暗闇でもできる筆談ボード)持ってくれば良かった!!
私はパソコンをもってきていたので、パソコンを開く。
バッテリー時間、大丈夫やー。

携帯を見ても圏外だし。。。。

ロビーの中をうろついてみる。
大きな筒鍋がいっぱいおかれている。
その数が増えていく。
雨漏りがひどくなっている。

21時過ぎに、突然、ホテルのスタッフがアナウンスをし、
懐中電灯を照らした。
みんなが一斉に移動し始めた。
「???」
懐中電灯を振り回しているホテルのスタッフ(ちょっとしたおじさん?)に「耳が聞こえませんが、何があるのですか?」と書いたメモをみせる。でも口で何か言っている。ゆっくり、と言っても、全然口が見えない。
ダメだ、こりゃ。

訳分からないけど、ついていこう、だめだったらもどればいいじゃん。
みんなのあとをついていく。階段を下りていくようだ。
地下に移動していく。ん?両側にレストランが並んでいる?
ちょっとあるいたなあと思ったら、
明るくなっていた。ああ、光がある!ほっとした。
広場があって、段ボールがたくさん敷かれてあった。ホテルのスタッフが段ボールをあつめて敷いてくれた。(あとで、Mさんに聞くと、仙台駅の地下にあたるエスパルというところらしい)
ちょっと壁に背が当たれるような所を選んで座る。毛布もあった。

近くにコンセントがあるので試しに携帯の充電器を差し込んでみるがダメだった。明かりだけついているみたいだね。携帯の電池もなくなりかけているし、
エネループの充電用電池につなげる。携帯の電源も切る。
22:00ごろ、ホテルのスタッフがきて水とパン、クッキーなどを配りにきた。

グレーの公衆電話があって、みんな並んでいる。
災害用伝言ダイヤルなのね。で、ろう者はどうやってやるんだ?
携帯も圏外だし。

とにかく寝よう。とにかく寝て体力温存して、明日の朝、情報収集してあっちこっち歩き回ろう。
携帯も圏外だし、しょうがない。

ダメだ。眠れない。しょうがないからちょっとだけパソコンでデータ入力をする。30分ほどやったら眠くなってきた。寝よう。

3/12(土)
途中で寝返りを何度も打つ。それを繰り返し、途中4時頃トイレにいって、
寝てまた目が覚めて寝て、と繰り返していると
朝6時になる。(3月12日の朝)

トイレに行く。水が出ないので顔が洗えない。

床に座って、仙台駅に行ってもう一度情報を集めてみようかな?と思ったら、
ホテルのスタッフが新聞を配り始める。

新聞を受け取って読んでみると、
あまりの被害さに愕然。そんなにひどかったの?
知らなかった。。。。
(ここで、情報の差を知った)

じゃあ、東京に帰れないの???

7時過ぎに、ホテルスタッフが何か言っているよう。みんなに何か言っているみたい。周りにいる人たちが次から次へと立ち上がって荷物を片付けている。
新幹線が復旧?と思っていると毛布にくるまって残っている人も。
私は??と思って、メモに書いて
ホテルスタッフのやさしそうなお兄さんがとおりかかったときに
メモを見せる。「すみませんが、耳が聞こえません、周りの様子が分かりません。しんかんせんの方はどうなりましたか?」(メモ)

お兄さんスタッフは「はい、しんかんせんのふっきゅうはメドがたっていない。高速バスもまだ。ひなんじょがあります。近くまで案内します。ひなんじょにいたら交通情報も入るので、ごはんもある」と書いた。

そこで、お兄さんスタッフのあとについてホテルの外にでる。
お兄さんスタッフが地図をわたしてくれて、小さな紙とペンも渡してくれて「よび」とメモする。地図を見せて「まっすぐいけばA小学校」と身振りで説明する。「みんなのあとをついていって」と書いてくれた。「ありがとうございます」と手話でかえし、みんなのあとをついて歩いていく。
地図をもって、A小学校へ。
体育館の中に入る。体育館の前に仮設トイレが4つあった。
舞台の上が本部のよう。とりあえず舞台のところに行ってみる。
名前と住所をかく。
舞台の上にいる人にメモをみせて「耳が聞こえません。東京からきました。何かあるのか教えてください」。
舞台の上にいるスタッフ数人が顔を見合わせて何か話し合って
「新幹線はまだメドがつかない。高速道路はどうなんだろう?」と書く。
「どこにいけば情報が分かりますか?ケータイが圏外なので」(メモ)
「ここにいて下さい。ここが一番です。ここ(舞台の上)で楽して下さい」(メモ)と書かれ、舞台の上にある敷き布団の上に案内される。

ちょっとほっとする。本部の中のようだから情報が入るかな?

メモで対応してくれたスタッフが、「保健師」と言う。

しばらくしたら、視覚障害者のような方が舞台の上にくる。
どうやらM区に住む視覚障害者のよう。
同じ敷き布団の上で二人で座る。
保健師といったスタッフが、名前と住所を書くようにと    を渡され、書く。
保健師スタッフがアナウンスがあった紙(原稿と思う)をみせてくれる。
「一人ですか?」とメモ。うんとうなずく。

しばらくして
「トイレにいってきます」(私のメモ)
「外にある仮設トイレを使って下さい」(保健師スタッフのメモ)

もどってくると、
「もうすぐ配給がきます」(保健師スタッフのメモ)
「ごはんの配給始まりました。私がもらってきますが、今は混み合っていますので少しお待ちください」(保健師スタッフのメモ)

あいかわらず携帯が圏外。

配給された食事(紙コップの中に入ったおかゆみたいなの)を食べる。
保健師スタッフから「紙コップ、わりばしは捨てないで下さい。また使います」とメモ。

まだ、ここにいないといけないの?とショック。。。。

避難所の外に出て、電波が届く所を探してみる。10分後アンテナが立つ。
メールは通じない。ツイッターならできる!!!
3/12 11:00ごろMさんにツイッターをする。すぐリプライがある。

いったん避難所に戻る。
12時半ごろ避難所に電気が通ったようで、天井のライトが付く。
すぐにコンセントに携帯のコードを差し込んで充電する。ツイッターもSMS,MMS,携帯Eメールもできた。でもウエブ検索ができない。
3/12 12:42夫にSMSして、バスを調べてほしいと。
ともかく携帯が圏外脱出のようで、ほっとして涙が出る。
「やっと携帯の電波がつながる。避難所で待機している。交通情報がつかめない。新幹線無理でも普通電車やバスで帰りたい。寒くて熱出そう」ツイッターで報告をする。

クラッカーの配給がされる。
受け取って、クラッカーを食べながら携帯の操作。
ツイッターを使って、交通事情について情報提供を求める。
そのときに、遠くにスケッチブックをもって周りに見せながら歩き回っている人がいる。
舞台の上にやってくる。
保健師スタッフが、その人と私を会わせてくれる。
その人が持っていたスケッチブックに「耳の聞こえない人いませんか?」と書かれてあった。その人(聴者)が私の前に座って手話で「困っていることない?」と聞く。「東京から来た。交通情報が知りたい。」と手話でいうと、「2~3日新幹線は無理だろうのこと」と返事。絶句していると、「寒くない?」と聞かれる。なので「寒い」というと、「分かった。私の家が近いので、毛布を持ってくる」とおっしゃった。「アナウンスとかコミュニケーションとかは?」と聞かれ、「今は、保健師スタッフがメモで書いてくれる」と手話で説明しながら、保健師スタッフが書いてくれたメモをみせた。メールアドレスを教えてもらい、手話ができる聴者は舞台からおりていった。通訳者なのか、手話サークルのメンバーなのかは知らないが、ほんとうにほっとした。
家族(妹、母)からも連絡があった。ただし、妹、母がメールを送ったのは3/11の夕方あたりだった。それが今頃届くとは。

保健師スタッフさんから「水道も出るようになりましたよ」とメモをもらう。
よかったね、と拍手する。

疲れたせいか、ちょっと横になる。うとうととしてると
さっきの、手話の聴者がきて、毛布をもってきてくれた。古バスタオル2枚、靴下を1足。古バスタオルは腰や首にまけば寒さを防ぐことができるのこと。「もし帰ることがあったら、毛布はそのままにしておいて」とおっしゃった。

ツイッターで職場の先輩たちに交通方法についていろいろと尋ねる。

3/12 15:00以降、携帯が圏外になる。泣きたくなる。

17時頃、保健師スタッフさんがやってきて、「帰ります。ちゃんとあとのことは引き継ぎしておきます」と。

携帯のワンセグ(私のiphone用にはそういうのをまだ買っていなかったので)があれば。。。と思ったり、パソコンを持っているが、パソコンにつけるUSBのワンセグを家においてきたことを後悔したり、あれこれと持ってくれば良かったと後悔する。

そして、携帯が圏外になってしまったので、電波って軟弱。。と思う。
地震のときでも圏外にならない電波がほしいと思ったり。

19時頃、みんなが騒ぐ。アナウンスがあったが何かわからない。
補聴器にはいろいろな音が入っているが、アナウンスなのか、人の声なのか、足音なのか、ものが動いた音なのかさっぱりわからない。
どうやら、食事がくばられてるよう。みんなが次から次へとご飯をもっている。
配給なのか?と気づく。本部に誰もいない。
教えてくれないの?と思いながら、並んでみる。
舞台の上にいたので、みんなの様子が見えたことが幸いだった。
舞台の上ではなく、体育館の床の上とかだったら、みんなの動きが見えず、気づかなかったのかもしれない。。。もしくは寝ていたらどうなっていたんだろう。。。メモを隣にいる視覚障害者に見せても分かんないし、私の声も通じないし。

並んでいるとき、舞台の上で私の隣で寝ていた視覚障害者の分は?と気づく。そのときに私の番になったので、もらってきて、その方に渡す。誰もその方に食事を配っていなかったようだ。足が悪くて歩きにくいようなので、並べないようだ。おまけに、私たちがいるところは舞台の上で、舞台の下にいるひとたちとは離れてるので、すぐに動きにくい、声かけにくい場所と気づく。

別の行列もあるようで、なにかコップみたいなのを抱えているので、何だろうと思って、お昼に貰った紙コップをもって並んでみる。私の出番になったときにみそ汁と分かった。それを舞台の上に持ち帰って、隣に座っている視覚障害者の方に渡す。
食事はみそ汁とおにぎり。冷えているけど助かる。

食べ終わって2時間後に、おじさんスタッフがやってきて身振りで「たべた?」と。

本部に何人かスタッフがもどってきたようなので、
「耳が聞こえませんので、アナウンスなどはメモ下さい。何か情報あれば書いて下さい」とメモをみせると、「大丈夫」と言われる。

マイクの機械?のようなものがもちこまれたようで、誰かがマイクもって話している。

周りの人に「何ですか?」と聞いてみると「大丈夫」と。
気がついたら、舞台の上にラジオがある。

「何か情報あります?」とラジオの内容を聞こうとしたら「うん、まってね」と、それっきり。

自力で情報収集しないと、と思い、携帯が圏外なので
明日は直接仙台駅に行って聞いてこようと思う。
でも荷物はどうしよう。。。荷物を避難所に置いてもいいのかな?それとも持っていこうかな?あれこれ考えてしまう。

本部にある机の上にパンフレットがあることに気づいて
ちょっとみてみたら、
外国人サポートに関するパンフレットだった。英語、中国語、韓国語などによるサポートが受けられる電話番号などの案内。
えーっと、障害者やろう者のためのサポートのパンフレットないの?
携帯のアンテナが戻ったら調べよう。

3/13(日)
 うとうとしながら、携帯で時刻を確認するというのを繰り返して、3/13の朝3時ごろ、アンテナが3本立っていることに気づく。

とたんにメールがドッとくる。3/12に送ってくれたものばかり。

ツイッターで現状報告をたくさん書く。

船酔いのような感覚が続く。

6時ごろ、携帯が圏外になり、どうしようと思ったが、すぐにアンテナが3本たつ。

夫、父からメールがくる。ツイッターで職場の先輩たちや友人たちがいろいろな交通情報を送ってくれる。きっと、みなさん寝ていなかったのだろうか??

ようやく、7時半ごろにツイッターでMさんから連絡があり、
Mさんが、山形に実家があり、山形から帰る方法があるので、一緒に山形に行きませんか?と。
すぐにもお願いしますとリプライをする。

新聞が配られたので、それを読んでみる。悲惨な地震であった。宮城だけではなく岩手まで。。。
ノートパソコンの充電をする。

なんか向こうにみんなが集まっているようなので、何かあるのかな?アナウンスがあったのかな?と思って行ってみると、携帯を充電するために集まっていたようだった。

壁とかに様々な情報の紙をはってくれたらいいのに、と思ったり。

Mさんと山形に行くメドがついたので、夫や父に連絡する。

避難所の掃除やゴミ拾いをする。アナウンスがあったが、私は分からなくて、
周りの人の行動をみて、あわててやる。サルみたいでくるしい。

ようやく、12時前になって、携帯のメールがほとんど通じるようになってきた。ホントにツイッターがなかったらほんとうに無理だったと思う。
ツイッターが通じてメールが通じないのもおかしい。

その同時に、情報リテラシーってむずかしいと。
携帯が使えない高齢ろう者、ろう者たちはどうするんだろう。。。
自分から「書いて下さい」とお願いしたり情報を求めたりすることがなかなかできないろう、難聴、聴覚障害者の現状に思いをはせる。
「書いて下さい」とお願いしても「ああ、分かった」と言われたりめんどくさそうに対応されたりひどいように扱われたりすることが積み重なると、
自分から行動を起こす力を奪われてしまう。
そういった現状にいたったのは
ろう、難聴、聴覚障害者自身ではないということを、
どこまで社会は分かっているのだろうか。社会はそんなことはないというが、現実をどこまで分かっているのだろうか。

12時過ぎにMさんと合流。Mさんのお父様が山形から迎えにきていたらしい。お父様の運転で、Mさん夫婦と一緒に、山形に向かう。

疲れてしまい、車の中でうとうと。
山形に入って目がさめたら、Mさんが携帯で宮城の聴覚障害者もしくは自分の大学の学生たちの安否情報を一生懸命確認してる。Mさんも疲れているのに。

Mさんと山形から帰る方法について話し合い、
山形から新潟までのバスがあるセンターまで行き、切符の予約をする。
16日の切符しかとれず。バスセンターは人混みがひどい。みんな仙台から避難したのかな。新潟までバスでいって、新潟から東京まで上越新幹線という方法もあるので、とりあえず、16日のバスのルートはおさえた。あとは飛行機で帰る方法を確保するだけだ。職場の先輩たちや妹に協力をもらって飛行機の情報をもらう。Mさんのご実家に滞在させていただいた。そして、携帯で航空券の確保に集中し、15日東京に戻る航空券を確保できた。Mさんのご実家でいただいた温かいご飯にどれだけ救われただろう。。。

3/14(月)
 昨日、寝るときに気づいた。やっと補聴器と,メガネを外せたことに。11日夜、12日夜、ずっと補聴器やメガネを外さずに寝ていたことに。
(どれだけ自分が情報を得られなかった、音声情報の内容が分からないことの不安がどれだけ大きかったか、だから補聴器をつけて寝ていたんだ。。。と)
飛行機で帰る日まで、Mさんのご実家にお世話となっている。
Mさんがインターネット、携帯などを酷使して宮城のろう者協会と連絡取り合いながら、宮城の聴覚障害者もしくは自分の大学の学生たちの安否確認および安否情報発信作業を行っている。Mさんの状態がよくなさそう(くまができている)。早く、支援体制ができてほしいと思わずにはいられない。同時にろう、難聴、聴覚障害者のメンタルヘルス支援も考えてもらいたい。

3/15(火)
 飛行機に乗って、飛行機の窓から東京が見えてくるとホッとするとともに、震災の悲惨さを痛感する。

※ 避難所にいながら書いたものなので、文章の間違い、誤字脱字があってもできるだけ修正せずにそのままにしています。当時の不安などがよくわかると思いますので。
※ なお、赤字のものは帰京して日記を読み直して後日思ったことです。
※ ツイッターやiphone関係の用語がたくさんありますがご承知ください。